号外:「アースデイ」はどのように広まったのか
4月22日は「アースデイ」です。みなさんご存知でしたか。実は私は、この記事を読むまで知りませんでした。アースデイがどういう日なのか。アースデイに関係する活動が、これまでどのような成果を生み出してきたのか。そして、これからアースデイの活動は何を目指していくのか。色々と考えさせられました。
2022年4月26日付けNational Geographic Japan電子版に掲載された記事より、
”毎年4月22日は、世界中の人々が故郷の地球を称えるアースデイ(地球の日)だ。アースデイの始まりは、1970年に米国の大学のキャンパスで行われた討論会だった。それがやがて、環境保護活動の成果を称え、これから行うべきことを再確認する日へと発展した。”
”もっとも環境への関心は、アースデイが制定されるずっと前から芽生えていた。14世紀から16世紀には、環境汚染や不衛生が伝染病の蔓延につながることを人々は懸念していた。また、土壌を保全する取り組みも、2000年前の中国、インド、ペルーまでさかのぼることができる。アースデイがそれまでと違ったのは、一連の活動が環境関連のさまざまな法律の制定につながった点だ。すなわち、米国ではすぐに大気浄化法と水質浄化法が改正され、環境保護庁が設立された。その後、アースデイは世界に広がり、公式サイトによるといまや10億人規模のイベントになっている。”
”1960年代の米国は、環境問題の黎明期にあった。多くの米国人が環境汚染の問題を認識するきっかけとなったのは、1962年に出版されたレイチェル・カーソンの「沈黙の春」だった。自然愛好家で元海洋生物学者のカーソンはこの名著を通して、当時農薬として広く使われていたDDTが食物連鎖に入り込み、人間や動物のがんや遺伝子の損傷の原因となることを詳しく記述した。「沈黙の春」は瞬く間にベストセラーとなる、人々は最新の技術が環境に与える影響に疑問を持ち始めた。「沈黙の春」は環境保護活動が加速する土台となったが、具体的な環境保護規制が法制化されるには、さらに8年が必要だった。”
”環境保護活動に大きな影響を与えたもう一人の人物が、アースデイの父でもあるウィスコンシン州選出の民主党上院議員(当時)ゲイロード・ネルソンだ。進歩主義者で自然を愛するネルソンは、精力的に環境保護立法に取り組んだ。たとえば、1964年には連邦政府の土地を守る「原生自然法」が、1968年には自然河川を保護する手続きを定めた「原生・景観河川法」が制定されている。”
”続く1969年1月、カリフォルニア州サンタバーバラで大規模な原油流出事故が起きた。たくさんの鳥が死に、多くのカリフォルニアのビーチが汚染された。当時、米国で起きた最大の原油流出事故であり、カリフォルニアでは今もこれを超える規模の惨事は起きていない。この事故を受けてネルソンは、環境保護活動を展開する新たな草の根運動を思い立つ。反戦運動に身を投じる学生たちにも刺激されたネルソンは、環境保護でも同じような活動を起こせないかと考え、教員と学生による環境をテーマにした討論会を提案した。日程は1970年4月22日。できる限り多くの学生に参加してもらおうと、春休みと期末試験のちょうど中間を選んだ。”
”さらにネルソンは、カリフォルニア選出の共和党下院議員ピート・マックロスキーと、若い活動家デニス・ヘイズに声をかけ、座り込みを企画した。これはすぐに、現在でもアースデイを象徴する抗議活動として発展することになった。討論会当日の4月22日には関心は大いに高まっており、2000の大学と1万の学校、そして2000万人の米国人が、デモや河川の清掃などを通じて最初のアースデイに参加した。”
”当時の世論調査では、大気汚染や水質汚染などの環境問題が一番の関心事に急浮上し、人種や犯罪の問題よりも重要だと受け止められていた。1971年の世論調査では、空気や水をきれいにするためにお金を払ってもいいと答える米国人は78%にのぼった。「アースデイが成功した理由は、整然とした活動だったからです。そこにはアイディアがあり、皆がそれを受け入れました。政治家たちに『なんと、みんなが気にしていたのはこのことだったのか』と言わせるために、たくさんの人々の姿を見せたかったのです」。ニューヨーク・タイムズ紙の取材にネルソンはこう答えた。”
”ネルソンが主導する運動が盛り上がるにつれて、世論による環境立法の後押しも大きくなり、議会やホワイトハウスの支持も広がった。最初のアースデイでの抗議活動の勢いは年間を通して持続し、それが史上最大規模の環境立法につながった。1970年末までに、リチャード・ニクソン大統領はさまざまな環境に関する法律に署名した。政府機関が自らの活動によって環境が受ける影響を評価することを義務付けた「国家環境政策法」、職場の安全衛生基準を定めた「労働安全衛生法」、排気ガスを規制する「改正大気浄化法」などだ。環境規制のさらなる効率化、一元化を図るため、ニクソンは環境保護庁を設立した。最初のアースデイのわずか8ヶ月後という急展開だった。”
”1972年には、環境に関する世界初の大規模な国際会議である国連人間環境会議(ストックホルム会議)が開催され、環境保護への関心は1970年代を通して続き、汚染物質の排出を規制する「改正水質浄化法」、農薬を規制する「連邦殺虫剤・殺菌剤・殺鼠剤法」などが議会で可決された。ネルソンは、ほとんどの主要な環境立法、とりわけ大気浄化法、水質浄化法、種の保存法を制定するうえで中心的な存在だった。環境保護をさらに推進するとともに、米国東部を縦断する長距離自然歩道であるアパランチトレイルを保護する法律の制定や、燃費基準の設定、DDTの禁止を支援した。”
”最初のアースデイの10年後、ネルソンは環境保護庁が発刊していた「EPA Journal」に、環境主義の黄金時代は終わるという予測は尚早で不正確だと記している。「注意深く見れば、環境保護活動が10年前よりはるかに強力になり、統率もとれ、情報の質も上がり、影響力も増していることは明らかだ。年を追うごとに人々の知識と理解が深まり、それに伴って力もましている」。アースデイは、20周年を迎える頃には世界的な運動に変容した。ヘイズは2億人を動員するキャンペーンを組織し、環境問題への関心を高めるとともにリサイクルを推進した。そうした活動を受けて、1992年にブラジルで行われた国連会議で環境問題が集中的に討議されることになった。これは「地球サミット」とも呼ばれ、サステイナビリティの実現に向けた世界的な取り組みを象徴するものとなる。”
”1995年には、環境問題への貢献が認められ、ネルソンに大統領自由勲章が送られた。ネルソンは新たな千年紀に入ってからも積極的に環境保護を続けたが、その焦点は、現在最優先で取り組むべき課題である地球温暖化、クリーンエネルギーに移っていった。30周年を迎えた2000年にはその一環として、インターネットとあわせて、アフリカのガボンで太鼓を使って村から村へメッセージを送るような草の根活動を繰り広げた。”
”討論会として始まったアースデイは、抗議活動や立法化にとどまらず、ボランティアや清掃活動などを含む世界的活動に発展した。現在の活動の中心になっているのは、気候変動対策だ。アースデイの公式サイトには、活動をはばむ2つの大きな存在として、「気候変動否定論者」と化石燃料産業の利益のために活動する「石油ロビイスト」が挙げられている。現在、森林火災、猛烈な暴風雨、異常気象が増加し、住んでいた場所を追われる人々も増える中で、気候変動について盛んな議論が行われている。先日、国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)は、気候変動の影響を遅らせるために早急に行動することを促す報告書を公開した。これは、深刻な健康被害や社会的不平等の増加を警告する内容になっている。”
”科学者たちは自然を回復させることで気候変動の影響を遅らせようとし、活動家たちは警告を発し続けている。大学のキャンパスや国際的な舞台で特に積極的に活動しているのは、グレタ・トゥーンベリさんのような若い人々だ。トゥーンベリさんは、スイスのダボスで開催された2019年の世界経済フォーラムでこう述べた。「皆さんの希望はいりません。みなさんに希望を持ってもらいたいとも思いません。私たちの家が燃えているかのように、必死に行動してもらいたいのです。」”