号外:シャンパンの歴史、ワインに泡を入れたのはだれ?

ドイツ(フランクフルト)やアメリカ(サンフランシスコ)に住んでいたころは、よくワインを飲みました。日本と比較すると、どちらの地域も気候は乾燥していて、この気候とそれぞれの料理とワインの相性が良かったのだと思います。日本に帰国してからは、日本の気候や料理との相性が良い(と私が感じている)焼酎や日本酒を飲むことが多くなりました。もっとも日本では私があまり良質なワイン(高価な?)を購入することができないことが理由なのかもしれません。スパークリングワインには、どことなく華やかな雰囲気がありますね。お祝いの席にはピッタリな飲み物だと思います。近頃では、発泡させた日本酒も見かけるようになりました。飲み物を楽しむ幅が広がることは、私のような酒好きにはとてもうれしいことです。

2023年2月8日付け日本経済新聞電子版に掲載された記事(ナショナルジオグラフィックからの転載)より、

シャンパンのリトグラフ

コルクがポンと飛び、泡がシューと弾ける。シャンパンならではの音だ。富と魅惑と楽しい時間に欠かせないフランスの泡立つワインは、にぎやかなパーティーから二人だけの親密なディナーまで、あらゆる祝いの席に登場する。泡の出るスパークリングワインは世界各地で生産されているが、「シャンパン」と呼べるのは、フランスのシャンパーニュ地方産のブドウを使用し、「シャンパーニュ方式」で発泡させたワインだけだ。細長いフルートグラスや広口で底が浅いクープグラスなど、シャンパン用にデザインされたグラスは、シャンパーニュ方式が生む発泡の美しさを存分に引き出してくれる。”

フルートグラス

“ワインはブドウを発酵させて製造するが、その過程で酵母がブドウの糖分をアルコールに変える。この化学反応で炭酸ガスが生まれるが、スティルワイン(発泡しない普通のワイン)の製造ではこの炭酸ガスを揮発させる。スパークリングワインを製造する場合はボトルの内部で二次発酵させ、炭酸ガスをボトルに閉じ込める。スパークリングワインのボトルを開けると、特徴的な「ポン!」という音がして細かな泡が立つのは、炭酸ガスが噴き出すからだ。”

長く豊かなワイン製造の歴史があるシャンパーニュ地方。この地方のブドウ栽培の始まりは、2000年前にさかのぼる。紀元前57年ごろ、古代ローマ人がこの地にブドウを植え、この地をカンパニア(平原が広がる大地)と名付けた。初期に作られていたのはスティルワインで、泡の出るワインがこの地の代名詞になるのはずっと後のことだった。中世までにシャンパーニュ地方の修道院では軽い赤ワインを製造しており、高い人気を得ていた。だが、フランスのワイン生産地としては最北部に位置するこの地方では、冬の冷たい風が発酵を妨げることがあった。暖かくなると発酵プロセスが再開し、偶然にスパークリングワインができることもあったが、ガラスのボトルが破裂することもあった。”

“それでは、だれが最初にスパークリングワインを製造しようとしたのだろうか。専門家によれば、その答えは英国にある。シャンパーニュ地方のワインは、大きな樽(たる)に入れて出荷された。港に到着すると、樽から分厚いガラスのボトルにワインを詰め替え、コルク栓を詰めたので、ボトル内で二次発酵が起きることがあった。二次発酵が起きた泡立つワインに、英国人たちは大喜びした。そして、ワインを発泡させる方法を研究し始めた。1662年、クリストファー・メレット博士が王立協会に提出した論文には、「近頃の酒屋では、ワインを発泡させるためにあらゆるワインに大量の糖蜜を加えている」と記されている。これが、密閉したワインボトルに意図的に糖分を加える技術が明記された最初の記述で、この技術がシャンパン製造の基礎となった。英国で高まるスパークリングワインの人気は、フランスの上流階級にも波及し始めたが、当時のシャンパン製造はまだ技術面で大変な労力を要し、1710年に販売されたのは1万本足らずだった。

シャンパンを楽しむフランスの貴族

“シャンパンの人気は、フランスと英国から徐々に他の市場にも拡大した。19世紀には、世界への進出が本格的に始まった。その先頭に立っていたのは夫を亡くしたフランスの女性たちだ。19世紀初頭の既婚女性はほとんど自立していなかったが、寡婦は財産や事業を所有することができた。亡くなった夫からシャンパンのブランドを受け継いだ女性たち数人は、醸造所のつつましい運営を転換し、今日の名だたるメゾンにまで発展させた。とりわけ有名なのが、バルブ・ニコル・ポンサルダンだ。今日では、マダム・クリコという名で広く知られている。夫を1805年に亡くし、ナポレオン戦争(1803年~1815年)末期にフランスの貿易封鎖をかいくぐって彼女がロシアに出荷したシャンパンは、現地で高い評価を得た。”

マダム・クリコは、シャンパン醸造の難題を画期的な方法で解決したことでも非常に有名だ。それは、二次発酵の澱(おり)をどのように取り除くかという問題で、数百年前からどのメゾンでも頭を悩ませていた。ボトル内の澱を放置すると、ワインが濁って価値がさがる。そこで、澱を取り除くために別のボトルにワインを入れ替えていたが、大変な手間がかかり、無駄が出るプロセスだった。マダム・クリコは、二次発酵中のボトルを上下逆に保管するラックを考案した。このラックを使えば、澱は瓶口の部分に集まる。そして、コルク栓を抜けば、ワインをほとんど減らさずに澱を簡単に除去することができる。ルミュアージュ(動瓶)と呼ばれるこのご術は、現代でも活用されている。この技術を取り入れたクリコでは、シャンパン製造が加速し、高まる需要への対応力と競争力も手に入れた。”

1860年代には、シャンパーニュ地方に住む別の寡婦、ルイーズ・ポメリーが、糖分を控えたスパークリングワインを開発した。ポメリーの辛口シャンパンは良質のブドウにこだわり、熟成に長期間をかけるので、製造に高額の費用を要した。彼女は、当時ポートワイン、マデイラワイン、シェリー酒などの甘口ワインがあふれていた英国市場に注目した。ポメリーが発売したブリュット(辛口)スタイルのシャンパンは、ビクトリア朝の英国人を魅了し、その人気はたちまち世界中に広まった。今日でも、人気が高いシャンパンのひとつである。”

フランスが東側から侵略を受けるたび、シャンパーニュ地方は激戦の地とならざるを得なかった。数世紀にわたって、古代ローマ人やゴート族、フン族のアッティラ王が率いる軍が、この地方で戦いを繰り広げた。その後、百年戦争と三十年戦争もこの地方に大きな打撃をもたらした。シャンパーニュ地方に最大の被害を与えたのは第一次世界大戦で、ブドウ畑の40%以上が破壊された。地元の男性の多くが出征したので、ブドウを収穫したりワインを醸造したりする作業は女性たちが担い、生産基盤を維持した。第二次世界大戦では、再びシャンパーニュ地方がドイツ軍に占領されたが、ブドウ畑の被害は比較的少なかった。戦争中、英首相だったチャーチル(生涯に4万2000本のシャンパンを開けたともいわれている)は同僚たちにこう檄(げき)を飛ばしたという。「いいかね、諸君。我々が戦っているのはフランスのためだけじゃない、シャンパンのためなんだ!」。

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