号外:東京ごみ戦争宣言から半世紀

私たちの日々の生活から排出されるゴミの処理は、非常に身近な環境課題です。製造企業はできるだけゴミがでないような製品設計をすること、物流や販売での無駄を省くこと、消費者個々人ができるだけゴミがでないような生活を心掛け、排出するゴミをリサイクルできるように区分すること。日本の場合、家庭から排出される一般ゴミは行政が収集して処理していますから、行政はそのシステムをできるだけ効率的に運用することなどがポイントです。日頃は、自宅から近所のゴミ・ステーションまでゴミ袋を持っていけば、後は行政が収集・処理してくれるので、私たち(一般消費者)はあまり深く考えていませんが、ゴミをきちんと処理して清潔な生活環境を維持することは、実はとても大変なことです。

2023年8月14日付け日本経済新聞電子版に掲載された記事より、

新江東清掃工場

“東京府と東京市が1943年に統合され、東京都が誕生して80年がたった。人口はこの間、約2倍に増え世界有数の大都市となった。一方、都の成長とともに増大したのがごみだ。ときに都内の自治体間で処理をめぐる論争を巻き起こし、不都合な真実を突き付けた。東京の成長とごみ問題は表裏一体の歴史でもある。

“1965年7月16日。東京湾に面した都のごみ埋め立て地「夢の島」に都や自衛隊、警察、消防などの職員が集まった。職員はごみの山に重油をまき、先端にぼろ布を巻き付けた棒を使って次々と火を付けた。ハエの発生源を焼き払う「焦土作戦」を決行するためだった。高度成長期の60年代はごみを燃やさず、23区では夢の島に直接埋める処理方法が主流だった。その結果、長年にわたる大量の生ごみの堆積でハエが異常発生した。「瞬く間に数百メートルの火点が一斉に炎と黒煙をあげて燃えだした。真昼の悪夢を見ているようだった」。都の清掃行政の歴史をまとめた「東京都清掃事業百年史」によると、当時の都職員は焦土作戦の様子をこう述懐する。だが焦土作戦は都が直面していたごみ問題の一時しのぎにすぎなかった。”

「迫りくるごみの危機は都民の生活をおびやかすものである。私は今、ごみ戦争を宣言し徹底的にごみ対策を進めたい」。1971年の東京都議会。当時の美濃部亮吉知事は居並ぶ議員を前に「ごみ戦争」を宣言し、ごみ問題の抜本解決に真正面から取り組む決意を表明した。ごみ戦争を宣言した当時の23区のごみの量は約370万トン。経済成長と人口増加により過去20年間で12倍近く増えていた。年を追うごとに増え続けるごみに対処するため、ごみを焼却する清掃工場と埋め立て処分場の建設推進を表明した。都は住民との対話を通じて各区に清掃工場を建設し、1997年に可燃ごみの全量を焼却できる体制を整えた。2000年には都が担っていた23区のごみの収集や焼却といった清掃事業を23区などに移管した。”

現在はごみの収集を各23区、焼却などは23区が共同運営する東京二十三区清掃一部事務組合(清掃一組)が担う。ごみの埋め立て地は都が管理する。「1日あたり1800トンの焼却能力は日本一だ」。清掃一組の新江東清掃工場(東京・江東)の担当者は胸を張る。同工場には毎日1500台ほどのごみ収集車が江東区と近隣区を中心にごみを集めて持ち込む。ごみは焼却して20分の1まで小さくし、埋め立てなどで処理する。

2021年度の23区のごみの量は1989年度のピークからほぼ半減した。ただ、2010年度以降はほぼ横ばいが続き清掃一組の全22工場で多くの老朽化が進む。焼却プラントの耐用年数は約30年とされており、建て替えなどが急務となっている。清掃一組の向上は周囲に住宅地もあり、建て替えには7年ほどかかる。毎日出る大量のごみを滞りなく処理しつつ工場の建て替え計画を練るのは容易ではない。「建設費も10年前より3倍ほど高くなっている」(清掃一組総務部)といい、財政負担も重い。”

ごみは「人の世を映す鏡」とも言われ、経済情勢や人口構成などがごみの量などに色濃く出る。地域から出るごみをどう処理するか。ごみ問題への対応は行政だけでなく、住民の理解と協力も欠かせない。

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