号外:社食の話、世界遺産の富岡製糸場が先駆け

皆さんがお勤めの会社に「社食(社員食堂)」はありますか?下記は社員食堂の歴史を紹介している記事ですが、日本経済の発展に合わせて社食が普及していったという経緯はとても面白いですね。大きな工場では今でも社食があるところが多いと思います。最近、都市部の高層オフィスビルでは、テナント各社の社員用にコンビニや食堂、レストランを備えたところもありますね。皆さんはどのようにしてランチをとられているでしょうか。

2022年1月30日付け日本経済新聞電子版に掲載された記事より、

腹が減っては戦はできぬ。働く人を食事の面で支える社員食堂。近年は社食の充実を自社の魅力としてアピールする企業も多い。社食の始まりを探ると、日本経済の発展を支えた労働者と食事の関係が見えてきた。”

”社食の歴史などについてまとめた資料は少ない。どこに話を聞こうかと思いあぐねていると「給食事業の草分け的存在」という企業を見つけた。給食大手の魚国総本社(大阪市)だ。「出張賄い業は創業者の田所邦雄が、後に丸紅社長を務める市川忍さんの協力のもと1927年に始めた」と話すのは、現社長で創業者の孫である田所伸浩さん。厨房で調理する現在の社食ビジネスを当時は出張賄い業と呼んだという。

”1914年の創業当初は大阪市内の店で鮮魚を売りながら、仕出し弁当を配達していた。その後、配達ではなく従業員を食堂に常駐させ、食事を提供する出張賄い業を考案。得意先だった大阪の丸紅商店(現丸紅)に本格的な社員食堂が誕生し、ご飯と味噌汁、焼き物や煮物など暖かい食事を出せるようになった。

丸紅商店(当時)の社員食堂の写真

”その後出張賄い業は軌道に乗ったが、戦時下には物資が配給制になり継続が困難になったことも。しかし戦後、復興した日本企業の発展とともに事業は拡大。日本経済の成長を食で支えた。「昔は今のように食べ物が余るほどは無かった時代。社食が持っていた意味も今とは違っていただろう」と振り返る。”

”実は出張賄い業が考案される前から、商店や企業がそれぞれ働く人に食事を提供していたという。今でも飲食店などで従業員向けに提供される「賄い」だ。そもそも出張賄い業が発展したのも、商業の街として栄える大阪の街に労働者が続々と集まったことで、各社が自前で大勢の食事を準備するのが難しくなったからだという。

社員食堂の歴史

”労働者への食事の提供はいつごろからあったのか。給食や社食の歴史に詳しい兵庫大学の福本恭子准教授は「江戸時代には既にでっち奉公や鉱山や炭鉱での労働者のために、食事提供が行われていた」と話す。住み込みで働く奉公人や、鉱山や炭鉱で働く人のためには食事の提供が不可欠だった。”

”その後明治時代になり、近代的な工場制度が導入された際に、労働者のための食事提供が本格的に行われるようになった。先駆けとされるのが1872年に操業を始めた富岡製糸場だ。日本初の本格的な機械製糸工場には、働き手となる女子工員が全国から集められ寄宿舎もつくられた。福本准教授によれば「福利厚生の一環として食事提供が必要となった。富岡製糸場では日本で最初の工場給食、すなわち社食が提供された」という。賄い方という役割があったこともわかった。務めたのが韮塚直次郎。製糸場建設を推進した渋沢栄一、初代場長の尾高惇忠と並び製糸場の創設期を支えた人物だ。韮塚は製糸場建設時には資材集めなどに奔走、開業後は食堂の運営を任された。女子工員だった和田英の「富岡日記」によると1日3食、ご飯、煮物や汁物などが提供されたという。”

富岡製糸場の写真

現代も社員食堂は進化を遂げている。社食紹介サイトの「社食ドットコム」を運営する藤井直樹さんは「社食は単に食事をする場所というだけではなくなってきている」と指摘する。東京・汐留にある資生堂本社の社食は、新型コロナウイルス禍の2020年6月に改装オープンした。食堂の運営や企画を担当するファシリティマネジメント部の近藤真理子さんは、コロナ対策には最大限配慮しながらも「社食は社員がアイディアを共有したり、コミュニケーションをとったりする場にもなる」と話す。スペースにはアートや社食運営の舞台裏などを描いた漫画を展示。近藤さんは「社食でいいや、ではなく社食がいいと思ってもらえるように」と意気込む。”

資生堂の社員食堂

”社食はコロナ禍で苦境に立つ。利用者が減り閉鎖を余儀なくされる企業も少なくない。だが社食ドットコムの藤井さんは「社食があることで社員全体の生産性向上につながる」と話す。就職活動の際に福利厚生の一環として社食に注目する学生向けに、充実度をアピールする企業もある。これまで働く人々を支えてきた社食。コロナ禍で受けた打撃を打破する糸口は、その新たな活用法に見いだせるのかもしれない。”

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