DCの波、カラス族やオリーブ少女

戦後日本のファッションの変遷を振り返る企画記事ですが、このころになると私が若かった頃に重なります。ということは、私も当事者であったわけです。「ああ、あんなファッションもあったな」とは思いますが、自分がファッションに無頓着だったこともあり、下記の記事にあるような社会背景を反映していたというような実感はありません。しかし「日本全体における差異化と均質化の同時進行」という表現は、当時の社会をうまく捉えていると思います。

2023年5月24日付け日本経済新聞電子版に掲載された記事より、

「DCブランド」とは、「デザイナーズブランド」と「キャラクターブランド」だと説明されても、何のことだか分からない、という時代になってしまった。そもそも「DCブランド」という言葉を見かけない。「デザイナーズブランド」とは、デザイナーが自分の名前で個性的な作品を作るブランドで、「キャラクターブランド」とは、経営者がデザイナーの名前を出さずにマーケティング主導で商品を作るブランドのこと、と当時は説明されもした。だが、デザイナーズブランドの代表格のワイズやコム・デ・ギャルソンは、どちらもデザイナーの名前ではないし、ワイズのデザイナーの山本耀司が高度な服作りの技術を身につけているのとは対照的に、コム・デ・ギャルソンの川久保玲は自身で服を作ることはない。結局、境界線も定義も不明なので、ひとくくりにDCブランドと呼ばれ、ブランド名をつけた衣服メーカーのほとんどが当てはまってしまった。

カラス族

“DCブランドに特徴があったとしたら、ほとんどが日本のブランドだったということだろう。それも、マンションの一室からスタートしたというので「マンションメーカー」と呼ばれた小規模既製服メーカーが多かった。DCブームが本格化するのは、大手アパレルが参入してくる1980年代の半ばだが、ブームの下地を築いたマンションメーカーは、70年代に既に設立されていたものが多かった。要するに、それまで自分の服を自身や洋裁店で作っていた若い女性たちが既製服を買いはじめるようになった時に、その需要に応えるようにして出現したのが小さなマンションメーカーで、それらが大きくなり洗練されていったのがDCブランドなのだ。高田賢三、三宅一生、森英恵といった海外で活躍するデザイナーたちを追いかけるように、松田光弘、菊池武夫、山本寛斎、コシノジュンコ、金子功、花井幸子など、その後も長く活躍するデザイナーが数多く世に出た。”

DCブランドは、個性を競い合おうとする若者たちの願望とうまく合致した。その担い手の多くは、60年代に比べて4倍にも増えていた大学生や短大生だった。80年に田中康夫が「なんとなく、クリスタル」を書いたころ、若者たちは、60年代のような政治的な主張ではなく、物によって自分が誰であるかを表現しなくてはならなくなっていた。田中が描いた消費する若者たちは、「クリスタル族」と呼ばれたが、まもなく、ニュートラ(ニュートラディッショナル)、ハマトラ(横浜トラッド)、サーファー、フィフティーズ、ニューウェーブ、プレッピー(名門校の学生風)、竹の子族など、つかみきれないほどファッションが多様化し、ごく普通の若者たちを巻き込んでいった。”

ピンクハウスの服を着た女性

世の中に基本的な日用品が出そろったため、先を争って新しい発明品を手に入れる時代は過ぎ、数多(あまた)ある選択肢の、どれを選んで所有するかが、アイデンティティの形成と大きく関係する時代が到来していた。細分化されはじめた市場で、学生を中心とした消費文化が花開いた。DCブランドは、そういった社会の落とし子だったので、他のブランドとの差異化を何よりも重視した。井上嗣也や田中一光などのグラフィックデザイナーとブランド独特のヴィジュアルを作り上げ、倉俣史朗、内田繁、河崎隆雄といったインテリアデザイナーたちと、ラフォーレ原宿やパルコで画期的な店舗空間を創った。なにより卓越したデザイン能力による個性的な製品で、社会に対して実に幅広い選択肢を提供した。

“店舗では、決して愛想が良いとは言えない店員たちが自社の服を着こなし、若い客たちは憧れや手本にした。「カラス族」と呼ばれた若者たちは、ワイズやコム・デ・ギャルソンの黒い服に全身を包み、平凡出版の「Olive(オリーブ)」から名付けられた「オリーブ少女」たちは、ピンクハウスの金子功や大西厚樹の手によるロマンティックな服を着た。さらには、自分たちも東京と同じようになろうとする地方の各都市でも、青山近辺のDCブランドと客との関わり方を手本とした店舗や集団が生成されていった。そういった集団は外から見れば個性的ではあるが、集団内では均質的だと言える。日本全体における差異化と同質化の同時進行を、DCブームは如実に反映していた。

“そして80年代後期になると、人々はブランドでないことを名前として掲げた「無印良品」を好むようになっていく。とはいえ無印良品もまた、田中一光をはじめとしたさまざまな領域のデザイナーたちの協働によって、アンチブランドという差異を目指して作られたブランドだった。

Follow me!