号外:食糧安全保障と付加価値追及のジレンマ

日本の食料自給率はカロリーベースで40%を割り込んでいて、極めて低い水準です。また近年、気候変動や地政学的リスクが増大して、世界の食料生産や市場が不安定になり、食料の安定的な確保(食料安全保障)への懸念が浮上しています。日本の農業をどうしていくのか、真剣に考える必要があります。想定されるリスクへの対応を怠り、食料は将来も安定的に輸入できると考えることは、あまりに楽観的で危険なことだと思います。

2024年3月12日付け日本経済新聞電子版に掲載された記事より、

商品の付加価値を高めることは、販売戦略の王道のひとつとされている。だがそれは、日本の食料と農業にとって最大のテーマである食料安全保障にも当てはまるのだろうか。今国会で審議する食料・農業・農村基本法の改正案をもとにその点を考えてみたい。基本法は1999年に制定された。その後の20年余りで、日本の食料と農業を取り巻く環境は様変わりした。気候変動で世界の食料生産が不安定になり、ウクライナ戦争で穀物や肥料の国際相場が高騰した。どちらも日本にとって大きなリスクになる。食料の多くを海外からの輸入に頼っているからだ。主要国の中で極めて低い食料自給率の向上を現行の基本法は掲げているが、実現の糸口はまったく見えていない。

基本法の改正案はこうした状況を踏まえ、「食料安全保障の確保」を基本理念に掲げた。食料の安定供給が脅かされる懸念を、日本が抱えているという認識を農政の根幹に据えたことを示す。農政の本来の目的を考えれば、当然のことだろう。ここで考えてみたいのは、農産物の付加価値を高めることの意味だ。例えば第5条で、生産性の向上や環境への負荷の低減と並び、付加価値の向上を掲げている。第31条も質の高い品種の導入や新品種の知的財産の保護などを通し、付加価値の向上を目指すことにしている。一見すると、ごく当たり前のことのように思える。だが農林中金総合研究所の平沢明彦理事研究員は「農政は付加価値の向上をずっと追求してきたが、食料安保に関して事態はかえって悪化した」と話す。「高く売るために付加価値を高めることは、マスマーケットからの撤退につながる」からだ。”

“2つの事例を取り上げてみよう。大型のトマト農場を各地に展開することに成功した農業法人がある。トマトの生産を始めた当初は、味に特徴のある高糖度の品種を育ててみた。その方が高く売れるからだ。実際、スーパーなどのバイヤーに聞いてみると、品種を高く評価してくれた。ところがいざ販売を初めてみると、事業拡大のテコになったのは高糖度の品種ではなく、一般的な中玉トマトだった。味も値段も普通の品種の方を、消費者は選んだのだ。それを安定して大量に生産する仕組みを整えたことで、スーパーの棚を押さえ、農場を増やすことができた。”

“対照的なのがコメだ。2023年産米の食味ランキングで、最高位の「特A」に格付けされた産地品種は43を数えた。全体の約3割を占める。いまや日本のコメはおしなべておいしくなった。特Aを目指し、各地が食味の向上に努めた成果だ。ではそれでコメの消費は拡大しただろうか。データを見れば結果は明らかだ。主食用米の需要は年10万トンのペースで減り続けている。消費の減退は人口減少が背景にあるが、生産調整とブランド化で高値を追ったことも響いている。産地の多くはその路線を脱し切れていない。”

ビジネスの観点だけから見れば、ブランド化は必ずしも否定すべきことではない。産地が競い合い、市場の獲得に失敗して立ちゆかなくなれば撤退する。プレーヤーの絶え間ない新陳代謝がイノベーションを刺激するからだ。だがそれと食料安保とは別の話だ。60年余りで農地は約3割減った。今後もさらに減り続ける懸念がある。ならば輸入をもっと増やせばいいと思うには、日本の自給率はあまりにも低い。国力の低下による「買い負け」の懸念も影を落とす。”

高付加価値ばかり追求すれば市場を狭め、安い外国産とのすみ分けを招く可能性がある。それは結果的に輸入に頼る食糧事情をいっそう固定させ、食料安保の確保に逆行する。これから考えるべきなのは、その反対だろう。生産性を高めてよりリーズナブルな価格を追求し、マーケットを拡大する。その際、特に重要なのはカロリーを供給できて、広い農地を守ることにつながる作物の強化。つまり穀物だ。

“これは別の意味でも食料安保に資する。輸入に頼る小麦や大豆、トウモロコシの増産を意味するからだ。一方、コメの生産性を高めれば輸出にも弾みがつく。いざというとき、コメを国内に回せば国民の不安を和らげることができる。いくら農産物の付加価値を高めても、ただでさえ狭い日本の農地を守れる保証はない。農地と生産者を含めた生産力の維持を第一の目標に掲げ、付加価値の向上はその手段のひとつと位置づけるべきではないだろうか。

“重要なのは、生産者と農業団体、自治体、そして研究機関が連携し、食料の生産インフラの保全に結びつくような農業を実現することだ。農政が何を優先するかがそれを左右する。基本法の国会審議で最も重要な論点だろう。”

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