号外:阪神淡路大震災から25年
1995年(平成7年)1月17日5時46分。阪神淡路大震災の発生時刻です。最大震度7の大地震が阪神地区を襲い、6434人が犠牲となり、都市部に大きな被害をもたらしました。震災の直接被害額は約9.9兆円、復旧・復興事業費は約16.3兆円の巨額に上ります。阪神高速道路や新幹線などの社会インフラが大打撃を受け、耐震基準や地震予知が見直される転換点となりました。
私と私の家族は西宮市で被災しました。ドーンという下から突き上げられるような感覚で目が覚めました。40秒間程度揺れていたと後で知ったのですが、その間全く動けませんでしたし、そんなに長い時間揺れていたという意識もありませんでした。冬の早朝で、停電のために真っ暗の中、手探りで家族の安全を確認しました。(私が住んでいた地域では、その後早い段階で電気は復旧しました)幸いに私の家族は全員無事でした。しばらくしてテレビをつけると、神戸市や周辺地域での甚大な被害の映像が流れてきましたが、自分たちの回りでおきていることだとは、なかなか認識できませんでした。上の子は7歳で、特に怪我がないことを確認できましたが、下の子は1歳で、機嫌良くしているのですが、本当に大丈夫なのか確認したくて、近所の病院を訪れました。そこでは血を流しながら運び込まれてくる人、白い布を掛けられて運び出されてゆく人が行き交い、騒然とした状況でした。親の心配も知らず、下の子はニコニコ笑っていましたので、とても診てもらえるような状況ではなく、その日はあきらめました。翌日大阪市内に避難して、そこの病院で怪我がないことを確認してもらいました。
私の自宅はなんとか無事でした。東日本大震災では津波の犠牲になられた方が多かったですが、阪神淡路大震災では建物の倒壊による窒息死や圧死で犠牲になられた方が多くいらっしゃいましたので(これも後から知ったことです)、自宅が無事で本当に助かりました。電気は通っていましたが、水道とガスが止まりました。最終的に水道とガスが復旧したのは2月の末でした。「ライフライン」という言葉が一般的になったのも、この時だったと思います。早速に困ったのがトイレの水です。近所に地下水をくみ上げている方がおられ、その水を一般の方に開放されていました。そこに行ってバケツに水をいただき、自宅まで持って帰って使ったのですが、なかなかそれでは間に合いません。1歳の赤ん坊を抱え、西宮市で生活することは困難と判断し、翌日、大阪市内大国町のウイークリーマンションを契約し、身の回りの物だけを持って自分の車で避難しました。阪神高速道路は西宮市内で倒壊して通行不能、幹線道路の国道2号線、国道43号線が大渋滞していましたが、何とか大国町へ到着できました。途中でいくつかの橋の上をノロノロと進んだのですが、考えてみれば、それらの橋の通行安全確認ができていたわけではありませんでした。尼崎市を抜けて大阪市内に入ると、被害の程度は軽くなり、やっと脱出することができたと感じました。
現在の神戸市の人口は約152万人です。震災前の151万人から震災後には一時142万人まで減少しました。震災は地元産業にも大きな被害を与えました。自宅の近くに「酒蔵通り」と呼ばれる通りがあり、「白鹿」、「大関」、「日本盛」等の日本酒メーカーが軒を連ねています。西宮から神戸にかけては「灘五郷」と呼ばれる日本を代表する酒処ですが、これらの酒蔵も大きな被害を受けました。若者の日本酒離れが進む中、日本酒の出荷量は2018年には震災前の3割程度にとどまっています。日本を代表する港、神戸港も大きな被害を受け、復旧に長い年月を要しました。それでも着実な復旧を遂げ、コンテナ貨物取扱量(20フィートコンテナ換算)は2017年に292万4000個と過去最高を更新し、2018年には294万4000個に達しました。輸出入総額も2018年に9兆2600億円と過去最高を更新し、神戸港の復活を印象付けています。
早いもので、あれから25年が経過しました。今でもこの時期になると、あの時のことを思い出します。毎年、各地で犠牲者を追悼する催しが行われていますが、震災経験者の高齢化も進み、そのような催しを継続することが難しくなってきているようです。犠牲になった方々の慰霊、追悼はもちろん大切なことですが、「何が起きて」、「どのように対処したのか」を伝えてゆくことも非常に大切なことです。震災だけでなく、日本は自然災害が多い国です。昨年も大型台風によって大きな被害が発生しました。可能な限りの備えをするとしても、自然災害はまたいつか、どこかで必ず発生します。これまでの経験から得た教訓を生かして、可能な限りの「減災」ができる体制、仕組みを作り上げなければならないと強く思います。